« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月19日 (金)

企画構成吟「奥の細道・・・俳句のふるさとを行く・・・」  --3--

「衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衝らが旧跡は、衣が関を隔てて南口をさし固め、蝦夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。 夏草や 兵どもが 夢の跡」「奥の細道」を語る時は必ず紹介される最大の情景です。                                                                                     0001_2

             奥の細道   芭蕉

      偖も義臣すぐって この城にこもり 功名一時の叢となる
      国 破れて山河あり 城 春にして草 青みたりと
      笠打ち敷きて 時のうつるまで 涙をおとしはべりぬ
      夏草や夏草や 兵どもが夢のあと 兵どもが夢のあと


「参考」和泉が城=秀衝の三男の居城・ 高館=義経の居城・ 義臣=義経の家臣
     で弁慶や兼房をいう。
「文意」今は夏草だけが生い茂っているが、ここはかって義経主従や藤原一族が功名
     や栄華を夢見たところだ。一面に生い茂る夏草を眺めていると、すべてが一
     丈の夢と消えた哀れさに心うたれる。

藤原一族全盛のころは、ここ中尊寺の周りには朱塗りの楼閣が沢山立ち並び、僧坊は300余もが立ち並び、豪華を極めたといわれます。しかし建武4年の火災で全てが焼失、金色堂だけが残りました。かって壇の浦で平家を滅亡に追いやって歴史に名を残した源義経はその後、兄の頼朝に追われる立場になってしまい、ここ藤原一族のもとで庇護を受ける身になってしまいました。そして藤原秀衝が亡くなると、待っていたかのように頼朝軍が押し寄せ、義経は高館で討たれ、短い生涯を終わったのでした。義経最後の地となった高館に登ってみますと、北上川と衣川が合流する様子が眼下に見えました。あたりを見回すと当時の華やかな功名の跡はなく、ただ草が生い茂っているだけでした。悲劇の主人公・義経の死と時を合わせるように藤原三代の栄華も幕を閉じたのです。「平泉懐古」の吟詠はココをクリックしてお聞きください。

      弁慶も たつやかすみの 衣川  (宗鑑)                                             

      卯の花に 兼房みゆる 白毛かな (曽良)

           平泉懐古   大槻 磐渓                                                        0001_1

      三世の豪華 帝京に疑す 朱楼 碧殿 雲に 接して長し

      只今唯東山の月のみ有って 来たり照らす当年の金色堂

「文意」奥州藤原氏の三代にわてる繁栄は豪華を極め、まるで京都の街のようだった
    ということです。

平泉の中尊寺がある高台から前方に見える600メートルほどの山は、束稲山(たばしねやま)と呼ばれ当時は桜の名所として知られていました。ここは吉野山の桜より美しいと評判となり、各地から沢山の人が訪れていました。西行法師も束稲山にやってきて吉野山の桜のほかにもこんなに美しい桜があったんだと歌にしています。「束稲山」の吟詠はココをクリックしてお聴きください。

             束稲山の   西行法師

    ききもせず 束稲山の さくら花 よしののほかに かかるべしとは                     
0001

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月14日 (日)

企画構成吟「奥の細道・・俳句のふるさとを行く・・」  -2-

                                                   
芭蕉が「奥の細道」の旅に出た江戸時代初期はまだ「俳句」とよばれるものはありませんでした。当時は「俳諧連歌」と呼ばれる詩が大変盛んで、古典的な流派(松永貞徳)と新しくできた前衛的な流派(談林派)が中心で5・7・5と7・7の句を仲間たちが交互に詠むという遊びだったようです。わかりやすく言えば「仲間が集まりお互いにだじゃれを言い合う言葉の遊びだったようです。芭蕉が江戸に出てきた頃は、この俳諧連歌は空前のブームで、芭蕉自身も談林派で活躍し、なかなかの人気者だったようです。その後、芭蕉は「発句の部分」の5・7・5だけの17文字で表現をする詩風を、少しずつ確立してゆきました。「奥の細道」の旅でも芭蕉は各地で、句会を開きながら、この17文字による詩の芸術性を高め、俳句の原形を確立してゆきました。私たちが度々口ずさんでいる「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」もこの旅で生まれた発句であって、まだ俳句として認知されていなかったことになります。明治時代に入り正岡子規が更に芸術性を高め、これを「俳句」と呼ぶようになり、漸く日の目を見たのです。さて日光にやってきた芭蕉は日光東照宮の僧侶が修行した裏見の滝の句を詠んでいます。この滝は当時は華厳の滝より有名だったということです。                                               0001_3

                  あらたふと    芭蕉
      
       あらたふと 青葉若葉の 日の光

       しばらくは 滝にこもるや 夏の初

「参考」日光東照宮から3キロほどの所にある裏見の滝は僧侶の夏行(げぎょう)の場所で当時は華厳の滝より有名だった。そういえば、そろそろ夏行がはじまる季節だなあ、裏見の滝を見ていると私も修行をしているような気持ちになる。

みちのくには、古くから「白河」「勿来」「念珠」とよばれる3つの関所が置かれ、蝦夷の南下を防ぐ役目をしていました。平安時代の詩人、能因法師は二度もここを訪れています。ここで詠んだ歌「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」が大変有名になり、こののちに、西行法師や芭蕉が奥州を旅するきっかけになったともいわれています。                                               0001_1

            都をば     能因法師

    都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

「文意」春霞が立つころに都を発ってやってきたが、白河の関はもう秋風が吹いています。

白河から松島にやってきた芭蕉は瑞巌寺の参拝をすませ、平泉に入ります。江戸を出発する前から、芭蕉は松島と象潟には特別の期待をもっていたようです。女性的な松島と男性的な象潟には対照的な美しさが見られるというのです。芭蕉は旅行記のなかで松島は中国の有名な洞庭湖や西湖よりも美しいと記し、江戸時代の詩人・釈南山も松島にかなうような美しい景色は、天下どこにも無いと詠み、中国の大詩人・李白は洞庭湖に勝る景色はどこにも無いと詠んでいます。

                 松島   釈 南山

        天下 山水有り 各 一方の美を 檀にす  
  
        衆美 松洲に 帰す 天下 山水 無


              洞庭湖に遊ぶ     李白                 0001_2_2

       洞庭湖西 秋月 輝き 瀟湘 江北 早鴻飛ぶ

       酔客満船 白紵を歌う 知らず霜露の 秋衣に入るを


松島から平泉にやってきた芭蕉は高館・衣川・中尊寺・光堂・秀衝の屋敷跡などを精力的に訪ねています。芭蕉は「奥の細道の旅」では平泉に最大の関心を持っていたようです。500年も前の平安時代、清衝・基平・秀衝たちが築き上げた「藤原三代の栄華」平泉に思いを馳せ、紀行文の中ではこんな表現をしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »